金曜日の夕方。
営業部には、珍しく穏やかな空気が流れていた。
大型案件のプレゼンは成功した。
正式な返事はまだ先だが、お客様の反応は悪くなかった。
蒼 — 「久しぶりに手応えありましたね。」
蒼が缶コーヒーを片手に笑う。
佐藤美咲 — 「まだ決まってないけどね。」
美咲も笑い返した。
営業部の空気は、この数日で少し変わった。
以前なら、資料が完成すれば終わりだった。
今は違う。
「これ、お客様に伝わるかな。」
そんな言葉が自然と飛び交うようになっていた。
その日の夕方。
神崎部長が営業部へ入ってきた。
神崎部長 — 「来週から新人研修が始まる。」
営業部が顔を上げる。
神崎部長 — 「今年も一人、営業部で預かる。」
神崎部長 — 「黒田さん。」
神崎部長 — 「今年はお願いします。」
黒田は静かにうなずいた。
黒田 — 「分かりました。」
神崎部長が帰ると、蒼が笑った。
蒼 — 「黒田さんなら安心ですね。」
蒼 — 「一年で営業部一番に育てそう。」
黒田は少しだけ困ったように笑った。
黒田 — 「そんなことない。」
黒田 — 「昔は。」
黒田 — 「一番育てるのが下手だった。」
営業部が静かになる。
美咲が思わず聞いた。
佐藤美咲 — 「え?」
黒田は珍しく、自分から昔話を始めた。
黒田 — 「二十年前。」
黒田 — 「初めて新人を持った。」
黒田 — 「教えた。」
黒田 — 「全部。」
営業部は耳を傾ける。
黒田 — 「営業のやり方。」
黒田 — 「電話。」
黒田 — 「メール。」
黒田 — 「提案。」
黒田 — 「断られた時の返し方。」
黒田 — 「全部。」
黒田は少し笑った。
黒田 — 「自信あった。」
黒田 — 「これで育つと思ってた。」
黒田 — 「でも。」
言葉が止まる。
ブラックコーヒーを一口飲む。
黒田 — 「半年で辞めた。」
営業部が静まり返る。
蒼 — 「理由。」
蒼 — 「黒田さんが厳しかったんですか?」
蒼が遠慮がちに聞いた。
黒田は首を横に振る。
黒田 — 「逆。」
黒田 — 「優しすぎた。」
蒼 — 「……?」
黒田 — 「全部。」
黒田 — 「教えた。」
黒田 — 「考える前に。」
黒田 — 「答えを言った。」
美咲は思わず息をのむ。
黒田は続けた。
黒田 — 「ある日。」
黒田 — 「新人に聞いた。」
『どうしてそう思った?』
黒田 — 「返事。」
黒田 — 「ありません。」
黒田 — 「何も。」
黒田 — 「考えてなかった。」
営業部の誰も言葉を発しない。
黒田 — 「私が。」
黒田 — 「全部。」
黒田 — 「考えてたから。」
黒田は机の上の黒いノートを開いた。
一番古いページだった。
そこには、色あせた万年筆の文字が残っている。
五月十二日 今日、山本が辞めた。教えたつもりだった。でも、育てていなかった。
美咲は目を伏せる。
これは名言ではない。
後悔だった。
黒田 — 「その日から。」
黒田はページを閉じた。
黒田 — 「答えを。」
黒田 — 「減らした。」
黒田 — 「代わりに。」
黒田 — 「質問を増やした。」
蒼がぽつりと言う。
蒼 — 「だから。」
蒼 — 「質問しかしないんですね。」
黒田は笑った。
黒田 — 「まだ。」
黒田 — 「修行中。」
営業部に小さな笑いが広がる。
その笑いは、今までとは少し違った。
尊敬だけではない。
親しみが混ざっていた。
その夜。
美咲は帰宅してから、ふと今日の会話を思い出した。
「全部教えた。」
「だから育たなかった。」
その言葉が頭から離れない。
リビングでは、小学五年生の娘・結菜が夏休みの宿題をしていた。
結菜 — 「お母さん。」
結菜 — 「この算数、分かんない。」
美咲は反射的に答えを書きそうになった。
でも、手が止まる。
黒田の声が聞こえた気がした。
「質問。」
美咲は娘の隣に座る。
佐藤美咲 — 「どこまでは分かった?」
結菜は少し考える。
結菜 — 「ここまではできた。」
佐藤美咲 — 「じゃあ。」
佐藤美咲 — 「次はどうしたらいいと思う?」
娘は鉛筆を持ち直した。
しばらく考える。
結菜 — 「あ。」
結菜 — 「分かった。」
その瞬間、美咲は思わず笑ってしまった。
黒田が教えていたのは、
営業でも、
AIでもなかった。
人の育て方だったのだ。
黒田室長の仕事ノート No.4
教えることと、育てることは違う。
教えるとは、知識を渡すこと。
育てるとは、考える力を残すこと。
答えは忘れる。
自分で見つけた答えは、人生に残る。
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第3章「答えは一人で作らない」
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