一月。
朝の空気は冷たかった。
営業部の窓から見える街は、白く霞んでいる。
七海はデスクの前で深呼吸を繰り返していた。
今日は初めて、一人でお客様を訪問する日だった。
佐藤美咲 — 「緊張してる?」
美咲が温かいコーヒーを差し出す。
七海は苦笑いを浮かべた。
高橋七海 — 「すごく。」
高橋七海 — 「失敗したらどうしようって。」
美咲は少し笑う。
その言葉は、半年前の自分とまったく同じだった。
営業車の鍵を渡しながら、美咲は言った。
佐藤美咲 — 「一つだけ約束して。」
七海は真剣な表情でうなずく。
高橋七海 — 「はい。」
佐藤美咲 — 「分からないことがあったら?」
七海は少し考える。
高橋七海 — 「電話します。」
美咲は首を横に振った。
佐藤美咲 — 「違う。」
七海は戸惑う。
高橋七海 — 「え?」
佐藤美咲 — 「まず。」
佐藤美咲 — 「聞いてみよう。」
佐藤美咲 — 「お客様に。」
七海は少し驚いたような顔をした。
高橋七海 — 「お客様に?」
佐藤美咲 — 「うん。」
佐藤美咲 — 「答えを探す前に。」
佐藤美咲 — 「困っていることを聞いてきて。」
七海はゆっくりとうなずいた。
午後一時。
七海は町工場を訪れていた。
社長は七十歳を超えている。
優しそうな笑顔の人だった。
最初は予定通り商品の説明を始めた。
しかし途中で気付く。
社長は資料を見ていない。
窓の外を見つめている。
七海は一瞬焦った。
説明が悪いのだろうか。
もっと詳しく話すべきか。
その時、美咲の言葉を思い出した。
「まず、聞いてみよう。」
七海は資料を閉じた。
高橋七海 — 「社長。」
高橋七海 — 「一つ、お聞きしてもいいですか。」
社長は顔を上げる。
社長 — 「どうぞ。」
高橋七海 — 「今、一番困っていることは何ですか。」
社長は少し笑った。
社長 — 「それを聞いてくれる人、久しぶりだな。」
七海は何も言わず待った。
社長はゆっくり話し始める。
社長 — 「システムじゃないんだ。」
社長 — 「若い子が辞めちゃう。」
社長 — 「教えても。」
社長 — 「一年でいなくなる。」
社長 — 「だから。」
社長 — 「教える気力もなくなってきた。」
七海はメモを取らなかった。
ただ聞いていた。
社長は二十分近く話し続けた。
帰り際、資料はほとんど開かなかった。
営業車に戻る。
七海はハンドルを握ったまま動けなかった。
今日は何も売れていない。
商品の説明も半分しかできなかった。
高橋七海 — 「失敗した……。」
そう思いながらエンジンをかけようとした。
その時、スマートフォンが鳴る。
社長からだった。
高橋七海 — 「もしもし。」
社長 — 「今日はありがとう。」
高橋七海 — 「え?」
社長 — 「久しぶりに。」
社長 — 「ちゃんと話を聞いてもらえた。」
社長 — 「それだけで嬉しかった。」
七海は言葉を失った。
契約ではない。
見積もりでもない。
でも。
「ありがとう。」
営業になって初めて、お客様からもらった言葉だった。
会社へ戻ると、美咲が待っていた。
佐藤美咲 — 「どうだった?」
七海は少し俯く。
高橋七海 — 「売れませんでした。」
佐藤美咲 — 「うん。」
高橋七海 — 「でも。」
七海は顔を上げる。
目が少し赤くなっていた。
高橋七海 — 「ありがとうって言われました。」
美咲は静かに笑う。
佐藤美咲 — 「よかったね。」
高橋七海 — 「でも。」
高橋七海 — 「契約じゃないですよ。」
佐藤美咲 — 「うん。」
佐藤美咲 — 「まだね。」
美咲はコートを脱ぎながら続けた。
佐藤美咲 — 「でも。」
佐藤美咲 — 「ありがとうを積み重ねた人が。」
佐藤美咲 — 「最後に選ばれる。」
七海は何も言えなかった。
その言葉には、不思議な重みがあった。
その様子を少し離れた席から黒田が見ていた。
何も言わない。
仕事ノートを開く。
万年筆を走らせる。
ページを閉じる。
そして静かに帰り支度を始めた。
美咲が追いかける。
佐藤美咲 — 「黒田さん。」
佐藤美咲 — 「今日。」
佐藤美咲 — 「七海さん。」
佐藤美咲 — 「ありがとうって言われました。」
黒田は立ち止まる。
少し笑う。
黒田 — 「よかった。」
佐藤美咲 — 「契約じゃないんです。」
黒田 — 「知ってる。」
佐藤美咲 — 「でも。」
美咲は少し考えながら言った。
佐藤美咲 — 「契約より嬉しかったです。」
黒田は営業部を見渡す。
七海はまだ電話の内容を思い返している。
蒼はその話を聞いて笑っている。
神崎部長も静かに耳を傾けている。
黒田はゆっくりうなずいた。
黒田 — 「営業は。」
少し間を置く。
黒田 — 「売る仕事じゃない。」
美咲はその続きを待つ。
黒田 — 「信じてもらう仕事。」
その一言だけ残して、黒田は営業部を後にした。
その夜。
七海は初めて営業日報を自分の言葉で書いた。
今日、商品は売れなかった。
でも、お客様が心を開いてくれた。
営業は、話す仕事だと思っていた。
違った。
聞く仕事だった。
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