朝から雪が舞っていた。
営業部では、新年度へ向けた大型プロジェクトの打ち合わせが始まっていた。
相手は全国に工場を持つ企業。
営業部だけでは対応できない。
情報システム部。
総務部。
経理部。
製造部。
五つの部署が一つの会議室に集まっていた。
美咲は少し緊張していた。
営業部の代表として参加するのは初めてだった。
会議が始まる。
情報システム部が説明する。
情報システム部 — 「AIを利用して問い合わせ対応を自動化します。」
経理部が続く。
経理部 — 「帳票も電子化できます。」
製造部が言う。
製造部 — 「現場の入力負担が増えませんか。」
議論は少しずつ平行線になっていった。
それぞれが正しい。
だから前へ進まない。
神崎部長が黒田を見る。
神崎部長 — 「黒田さん。」
神崎部長 — 「どう思いますか。」
部屋の空気が止まる。
みんなが黒田の答えを待っていた。
しかし黒田は資料を閉じた。
静かに言う。
黒田 — 「分かりません。」
会議室が静まり返る。
神崎部長も驚いた表情を見せる。
黒田 — 「まだ。」
黒田 — 「現場を見てないので。」
その一言だけだった。
午後。
黒田は一人で工場へ向かった。
営業担当も連れず。
資料も持たず。
手には黒い仕事ノートだけ。
現場では、作業着姿の社員たちが忙しく動いていた。
黒田は一時間近く何も質問しない。
ただ見ている。
歩いている。
挨拶だけする。
帰り道。
美咲が車を運転していた。
助手席の黒田は窓の外を眺めている。
佐藤美咲 — 「黒田さん。」
佐藤美咲 — 「どうでした?」
黒田は少し笑った。
黒田 — 「まだ。」
黒田 — 「分からない。」
美咲は思わず聞き返す。
佐藤美咲 — 「一時間も見ていたのに?」
黒田はうなずいた。
黒田 — 「一時間じゃ。」
黒田 — 「人生は分からない。」
少し沈黙が流れる。
黒田 — 「仕事も。」
黒田 — 「同じ。」
翌週。
黒田はもう一度工場を訪れた。
今度は社員食堂へ行った。
昼休み。
若手社員の輪に入る。
カレーを食べながら雑談する。
黒田 — 「最近どう?」
黒田 — 「夜勤は?」
黒田 — 「新人は?」
仕事の話はほとんどしない。
笑い声だけが響いていた。
三回目の訪問。
今度は工場長室。
四回目。
倉庫。
五回目。
配送センター。
六回目。
夜勤。
営業部では少し話題になっていた。
蒼 — 「黒田さん。」
蒼 — 「まだ提案書を書かないんですか。」
蒼が不思議そうに言う。
美咲も少し気になっていた。
普通なら、もう資料は完成している頃だ。
黒田はコーヒーを飲みながら答えた。
黒田 — 「まだ。」
黒田 — 「聞き足りない。」
二週間後。
ようやく提案会議の日が来た。
黒田がホワイトボードに書いた言葉は、たった一つだった。
「入力を減らす」
ではない。
現場の会話を減らさない
会議室が静まり返る。
製造部長がゆっくり口を開く。
製造部長 — 「そこを言ってくれた人は初めてです。」
情報システム部長もうなずく。
情報システム部長 — 「効率ばかり見ていました。」
黒田は首を横に振る。
黒田 — 「違います。」
黒田 — 「教えてもらいました。」
黒田 — 「現場に。」
その瞬間、美咲は胸が熱くなった。
黒田は、
現場を導いたのではない。
現場から学んだ。
帰り道。
美咲は黒田へ聞いた。
佐藤美咲 — 「どうして。」
佐藤美咲 — 「最初に”分からない”って言えたんですか。」
黒田は少し考えた。
黒田 — 「若い頃。」
黒田 — 「知ってるふりばかりしてた。」
黒田 — 「でも。」
黒田 — 「知らないまま決める方が。」
黒田 — 「ずっと怖い。」
それだけだった。
その夜。
美咲は仕事ノートを開く。
今日のページに一行だけ書いた。
分からないと言える人ほど、よく学ぶ。
書き終えて、ふと笑った。
黒田のノートを真似している。
でも、それでいいと思った。
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