十一月の終わり。
日が暮れるのが早くなった。
午後六時を過ぎると、営業部の窓ガラスには夜の街が映り込む。
美咲はパソコンを閉じると、小さく息をついた。
佐藤美咲 — 「今日は終わり。」
以前なら、ここからもう二時間は残業していた。
AIを使うようになってから、資料づくりやメール作成はずいぶん早くなった。
不思議なのは、仕事が減ったわけではないのに、帰る時間が早くなったことだった。
黒田 — 「佐藤さん。」
振り返ると黒田が立っていた。
いつものブラックコーヒーではなく、小さな水筒を持っている。
黒田 — 「今日は早いね。」
佐藤美咲 — 「はい。」
佐藤美咲 — 「少しだけ。」
黒田は笑った。
黒田 — 「質問。」
黒田 — 「浮いた時間。」
黒田 — 「何に使う?」
美咲は少し考える。
佐藤美咲 — 「家事……ですかね。」
黒田 — 「それも仕事。」
黒田はうなずく。
黒田 — 「でも。」
黒田 — 「少しだけ。」
黒田 — 「自分にも使って。」
それだけ言うと、黒田は先に営業部を出ていった。
帰りの電車。
美咲はいつものようにスマートフォンを取り出した。
SNSを開こうとして、指が止まる。
今日の黒田の言葉を思い出した。
「浮いた時間。何に使う?」
スマートフォンをバッグへ戻した。
窓の外を見る。
流れていく街の灯り。
制服姿の高校生。
急ぎ足の会社員。
買い物袋を提げた親子。
何気ない景色なのに、今日は少し違って見えた。
佐藤美咲 — 「最近。」
佐藤美咲 — 「空を見てなかったな。」
そう思った。
家に着くと、小学五年生の娘、結菜がリビングで宿題をしていた。
結菜 — 「おかえり。」
佐藤美咲 — 「ただいま。」
結菜 — 「今日は早いね。」
佐藤美咲 — 「うん。」
佐藤美咲 — 「ちょっとだけ。」
結菜は嬉しそうに笑った。
結菜 — 「じゃあ、一緒にご飯作ろ。」
以前なら、
「先にやってて。」
そう答えていた。
今日は違う。
佐藤美咲 — 「いいよ。」
エプロンをつける。
冷蔵庫を開ける。
佐藤美咲 — 「今日は何にする?」
結菜 — 「ハンバーグ!」
佐藤美咲 — 「いいね。」
二人で玉ねぎを切る。
パン粉を入れる。
こねる。
フライパンから音がする。
料理なんて毎日のことなのに、
今日はどこか特別だった。
食卓。
結菜がぽつりと言った。
結菜 — 「お母さん。」
結菜 — 「会社って楽しい?」
突然の質問だった。
佐藤美咲 — 「どうしたの?」
結菜 — 「先生がね。」
結菜 — 「将来どんな仕事したいか考えてきてって。」
美咲は少し笑った。
佐藤美咲 — 「難しい宿題だね。」
結菜 — 「うん。」
結菜 — 「お母さんは?」
結菜 — 「仕事、好き?」
その質問に、美咲はすぐ答えられなかった。
営業は好きだ。
お客様に喜んでもらえるのも嬉しい。
でも、
仕事は忙しくて大変なもの。
そんなイメージもあった。
しばらく考えてから答えた。
佐藤美咲 — 「最近ね。」
佐藤美咲 — 「仕事が少し面白くなってきた。」
結菜 — 「どうして?」
佐藤美咲 — 「考える時間が増えたからかな。」
結菜は首をかしげる。
結菜 — 「考える?」
佐藤美咲 — 「うん。」
佐藤美咲 — 「前はね。」
佐藤美咲 — 「急ぐことばっかり考えてた。」
佐藤美咲 — 「今は。」
佐藤美咲 — 「相手のことを考える時間が増えた。」
結菜は少し考えてから笑った。
結菜 — 「じゃあ。」
結菜 — 「学校と一緒だ。」
佐藤美咲 — 「え?」
結菜 — 「急いで答えを書くより。」
結菜 — 「ちゃんと考えた方が楽しいもん。」
美咲は思わず笑った。
子どもの言葉は、ときどき驚くほど本質を突く。
翌朝。
営業部。
いつもの朝礼が終わる。
黒田がホワイトボードに書いた。
速い
その下に、もう一つ。
深い
黒田 — 「質問。」
営業部が静かになる。
黒田 — 「どっちが。」
黒田 — 「お客様を助ける?」
誰もすぐには答えない。
美咲は昨日の夕食を思い出していた。
娘とゆっくり作ったハンバーグ。
急げばもっと早く作れた。
でも、一緒に作った時間は、きっと忘れない。
美咲はゆっくり顔を上げた。
佐藤美咲 — 「深い方です。」
黒田は微笑んだ。
黒田 — 「そう。」
黒田 — 「速さは価値。」
黒田 — 「でも。」
黒田 — 「深さは信頼。」
営業部の誰もメモを取らなかった。
その一言は、メモよりも深く心に残った。
その日の午後。
美咲は、お客様との打ち合わせで以前より五分長く雑談をした。
仕事とは関係のない話。
工場の近くで咲く桜のこと。
新しく生まれたお孫さんのこと。
帰り際、お客様が笑って言った。
お客様 — 「今日は、相談して良かった。」
提案書の話より、その一言の方が嬉しかった。
営業部へ戻る道で、美咲は空を見上げる。
夕焼けが街をゆっくり染めていた。
「急がなくても。」
「ちゃんと前に進めるんだ。」
そんなことを思いながら、会社への道を歩いた。
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