THINKLAB
シリーズ目次を開く

黒田室長はAIを教えない

AI時代に一番大切な仕事の教科書

第8章

帰り道は、考える時間

答えが出ない時間も、仕事の一部なのかもしれない。

読了時間 約9分公開日 2026年7月22日
  • 余白
  • 思考
  • 帰り道

十一月の終わり。

日が暮れるのが早くなった。

午後六時を過ぎると、営業部の窓ガラスには夜の街が映り込む。

美咲はパソコンを閉じると、小さく息をついた。

佐藤美咲 — 「今日は終わり。」

以前なら、ここからもう二時間は残業していた。

AIを使うようになってから、資料づくりやメール作成はずいぶん早くなった。

不思議なのは、仕事が減ったわけではないのに、帰る時間が早くなったことだった。

黒田 — 「佐藤さん。」

振り返ると黒田が立っていた。

いつものブラックコーヒーではなく、小さな水筒を持っている。

黒田 — 「今日は早いね。」

佐藤美咲 — 「はい。」

佐藤美咲 — 「少しだけ。」

黒田は笑った。

黒田 — 「質問。」

黒田 — 「浮いた時間。」

黒田 — 「何に使う?」

美咲は少し考える。

佐藤美咲 — 「家事……ですかね。」

黒田 — 「それも仕事。」

黒田はうなずく。

黒田 — 「でも。」

黒田 — 「少しだけ。」

黒田 — 「自分にも使って。」

それだけ言うと、黒田は先に営業部を出ていった。

帰りの電車。

美咲はいつものようにスマートフォンを取り出した。

SNSを開こうとして、指が止まる。

今日の黒田の言葉を思い出した。

「浮いた時間。何に使う?」

スマートフォンをバッグへ戻した。

窓の外を見る。

流れていく街の灯り。

制服姿の高校生。

急ぎ足の会社員。

買い物袋を提げた親子。

何気ない景色なのに、今日は少し違って見えた。

佐藤美咲 — 「最近。」

佐藤美咲 — 「空を見てなかったな。」

そう思った。

家に着くと、小学五年生の娘、結菜がリビングで宿題をしていた。

結菜 — 「おかえり。」

佐藤美咲 — 「ただいま。」

結菜 — 「今日は早いね。」

佐藤美咲 — 「うん。」

佐藤美咲 — 「ちょっとだけ。」

結菜は嬉しそうに笑った。

結菜 — 「じゃあ、一緒にご飯作ろ。」

以前なら、

「先にやってて。」

そう答えていた。

今日は違う。

佐藤美咲 — 「いいよ。」

エプロンをつける。

冷蔵庫を開ける。

佐藤美咲 — 「今日は何にする?」

結菜 — 「ハンバーグ!」

佐藤美咲 — 「いいね。」

二人で玉ねぎを切る。

パン粉を入れる。

こねる。

フライパンから音がする。

料理なんて毎日のことなのに、

今日はどこか特別だった。

食卓。

結菜がぽつりと言った。

結菜 — 「お母さん。」

結菜 — 「会社って楽しい?」

突然の質問だった。

佐藤美咲 — 「どうしたの?」

結菜 — 「先生がね。」

結菜 — 「将来どんな仕事したいか考えてきてって。」

美咲は少し笑った。

佐藤美咲 — 「難しい宿題だね。」

結菜 — 「うん。」

結菜 — 「お母さんは?」

結菜 — 「仕事、好き?」

その質問に、美咲はすぐ答えられなかった。

営業は好きだ。

お客様に喜んでもらえるのも嬉しい。

でも、

仕事は忙しくて大変なもの。

そんなイメージもあった。

しばらく考えてから答えた。

佐藤美咲 — 「最近ね。」

佐藤美咲 — 「仕事が少し面白くなってきた。」

結菜 — 「どうして?」

佐藤美咲 — 「考える時間が増えたからかな。」

結菜は首をかしげる。

結菜 — 「考える?」

佐藤美咲 — 「うん。」

佐藤美咲 — 「前はね。」

佐藤美咲 — 「急ぐことばっかり考えてた。」

佐藤美咲 — 「今は。」

佐藤美咲 — 「相手のことを考える時間が増えた。」

結菜は少し考えてから笑った。

結菜 — 「じゃあ。」

結菜 — 「学校と一緒だ。」

佐藤美咲 — 「え?」

結菜 — 「急いで答えを書くより。」

結菜 — 「ちゃんと考えた方が楽しいもん。」

美咲は思わず笑った。

子どもの言葉は、ときどき驚くほど本質を突く。

翌朝。

営業部。

いつもの朝礼が終わる。

黒田がホワイトボードに書いた。

速い

その下に、もう一つ。

深い

黒田 — 「質問。」

営業部が静かになる。

黒田 — 「どっちが。」

黒田 — 「お客様を助ける?」

誰もすぐには答えない。

美咲は昨日の夕食を思い出していた。

娘とゆっくり作ったハンバーグ。

急げばもっと早く作れた。

でも、一緒に作った時間は、きっと忘れない。

美咲はゆっくり顔を上げた。

佐藤美咲 — 「深い方です。」

黒田は微笑んだ。

黒田 — 「そう。」

黒田 — 「速さは価値。」

黒田 — 「でも。」

黒田 — 「深さは信頼。」

営業部の誰もメモを取らなかった。

その一言は、メモよりも深く心に残った。

その日の午後。

美咲は、お客様との打ち合わせで以前より五分長く雑談をした。

仕事とは関係のない話。

工場の近くで咲く桜のこと。

新しく生まれたお孫さんのこと。

帰り際、お客様が笑って言った。

お客様 — 「今日は、相談して良かった。」

提案書の話より、その一言の方が嬉しかった。

営業部へ戻る道で、美咲は空を見上げる。

夕焼けが街をゆっくり染めていた。

「急がなくても。」

「ちゃんと前に進めるんだ。」

そんなことを思いながら、会社への道を歩いた。

前の話

第7章「忙しい人ほど、考えていない」

シリーズ一覧へ全エピソード

次の話

第9章「一番手のかかる新人」