四月一日。
営業部の朝は、いつもと変わらなかった。
七海が一番に出社する。
窓を開ける。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
コピー機が動き始める。
いつもの朝だ。
高橋七海 — 「おはようございます。」
蒼が入ってくる。
蒼 — 「おはよう。」
美咲も出社する。
営業部に、少しずつ人が集まる。
いつも通り。
本当に、いつも通りだった。
七海は自然とコーヒーを二杯入れた。
一杯は自分。
もう一杯は……
高橋七海 — 「あ。」
思わず手が止まる。
黒田の席を見る。
椅子がきれいに机へ収まっていた。
机の上には何もない。
パソコンもない。
書類もない。
黒い革のノートだけが、静かに置かれていた。
蒼 — 「黒田さん?」
蒼が周りを見渡す。
蒼 — 「まだ来てない?」
美咲も首をかしげる。
佐藤美咲 — 「珍しいね。」
黒田は毎朝、一番早く来る。
いつもコーヒーを飲みながら営業部を眺めていた。
遅刻など、一度も見たことがない。
その時だった。
全員のパソコンへ、一通のメールが届く。
件名。
人事異動のお知らせ
営業部が静かになる。
美咲はクリックする。
画面を見たまま、動けなくなった。
四月一日付 人事異動
黒田室長
人材開発部 部長 着任
誰も声を出さなかった。
高橋七海 — 「……え?」
七海が小さくつぶやく。
蒼は立ち上がる。
蒼 — 「うそでしょ。」
田辺がゆっくり椅子へ座る。
神崎部長だけが静かに目を閉じた。
知っていた。
でも、話さなかった。
営業部には、不思議な静けさが流れていた。
誰も泣かない。
誰も騒がない。
ただ、机を見ている。
黒田の机を。
美咲がゆっくり近づく。
机の上。
黒い革のノート。
その横に、一枚の封筒。
表には、たった一言。
営業部のみなさんへ
美咲は営業部を見渡した。
佐藤美咲 — 「……開けてもいいかな。」
誰も反対しない。
封を切る。
中には便箋が一枚。
黒田らしい、少し丸みのある字。
営業部のみなさんへ。
お世話になりました。
……と書くと、もう会えないみたいですね。
同じ会社です。
いつでも会えます。
だから、「ありがとう」は書きません。
一つだけ。
営業部へ来た初日、ホワイトボードへ
「仕事とは?」
と書きました。
あの答えは、私もまだ分かりません。
だから、今日からは、みなさんが続きを考えてください。
黒田
便箋は、そこで終わっていた。
営業部は静まり返る。
七海が涙をこぼす。
高橋七海 — 「ずるい……。」
蒼も笑いながら目をこする。
蒼 — 「最後まで質問なんですね。」
美咲は黒田のノートを開く。
最後のページ。
そこには、一行だけ。
次は、あなたが書く。
その下は白紙だった。
営業部には、誰もいない。
でも、不思議だった。
黒田がいなくなった感じがしない。
七海が新人へ質問している。
蒼がレビューをしている。
神崎部長が、お客様の声を読んでいる。
美咲が、ホワイトボードの前に立つ。
黒田がいた頃と、同じ景色だった。
美咲は黒板消しを持つ。
年間消えなかった文字。
仕事とは?
消そうとして、手が止まる。
しばらく見つめる。
そして、黒板消しを置いた。
代わりに、その下へ新しい文字を書く。
今日の質問
営業部のみんなが振り向く。
美咲は少し笑った。
佐藤美咲 — 「今日は。」
佐藤美咲 — 「みんなに質問があります。」
七海が笑う。
高橋七海 — 「答えは教えてくれないんですよね。」
営業部に笑いが広がる。
美咲も笑った。
佐藤美咲 — 「もちろん。」
佐藤美咲 — 「今日は。」
佐藤美咲 — 「私も分からないから。」
その瞬間。
営業部は、黒田室長がいた頃と同じ空気になった。
違うのは、一つだけ。
もう、その空気は黒田一人のものではない。
営業部全員のものになっていた。
COMPLETE
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