三月の終わり。
営業部の窓から見える桜並木は、まだ三分咲きだった。
朝の光が差し込む営業部は、不思議なくらい穏やかだった。
電話が鳴る。
笑い声が聞こえる。
誰かがレビューをしている。
誰かがAIへ質問している。
誰かが新人へ質問している。
半年前にはなかった光景だった。
美咲はふと営業部を見渡した。
七海は電話をしながらメモを取っている。
蒼は後輩へAIの画面を見せながら説明している。
田辺はレビュー中なのに赤ペンではなく付箋を使っている。
神崎部長は数字ではなく、お客様アンケートを読んでいる。
営業部が変わった。
そのことを、誰よりも美咲が感じていた。
その時だった。
内線電話が鳴る。
黒田が受話器を取る。
黒田 — 「はい。」
静かに返事をする。
黒田 — 「分かりました。」
電話を切る。
立ち上がる。
黒田 — 「少し社長室へ行ってきます。」
それだけ言って営業部を出ていった。
誰も気に留めない。
美咲だけが、なんとなくその背中を見送っていた。
社長室。
ノックの音。
黒田 — 「失礼します。」
社長は窓際に立っていた。
振り返ると、小さく笑う。
社長 — 「営業部はどうだ。」
黒田も笑う。
黒田 — 「私がいなくても回ります。」
社長は黙って頷いた。
机の上には、一枚の封筒が置かれていた。
白い封筒。
人事部の印が押されている。
社長はそれを黒田へ差し出した。
黒田は何も言わず受け取った。
開けない。
ただ、静かに胸ポケットへ入れる。
社長 — 「四月一日付だ。」
社長の声は静かだった。
黒田 — 「はい。」
社長 — 「寂しくなるな。」
黒田は少し笑う。
黒田 — 「いい営業部になりました。」
その一言だけだった。
営業部へ戻る廊下。
窓の外には桜が揺れている。
黒田は立ち止まり、しばらくその景色を見ていた。
黒田 — 「春か。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
営業部では、七海が困った顔をしていた。
高橋七海 — 「佐藤さん。」
高橋七海 — 「この提案書なんですが。」
美咲は自然に席を立つ。
資料を見る。
そして、すぐには答えない。
佐藤美咲 — 「七海さん。」
佐藤美咲 — 「一つ聞いてもいい?」
七海が笑う。
高橋七海 — 「また質問ですか?」
営業部のみんなも笑った。
佐藤美咲 — 「うん。」
佐藤美咲 — 「この提案。」
佐藤美咲 — 「一番伝えたいことは何?」
七海は少し考えた。
もう以前のように慌てない。
ノートを開く。
お客様のメモを読む。
そして、自分の言葉で話し始めた。
黒田は少し離れた席から、その様子を見ていた。
何も言わない。
もう、自分が入る場面ではない。
そんな穏やかな表情だった。
夕方。
営業部の照明が少しずつ消えていく。
黒田は机の引き出しを開けた。
一番奥に、小さな紙袋が入っている。
中には古い名刺。
古い社員証。
色あせたボールペン。
二十年以上前から使っている万年筆の箱。
一つひとつ丁寧に袋へ入れる。
その時、美咲が近づいた。
佐藤美咲 — 「片付けですか?」
黒田は一瞬だけ手を止めた。
黒田 — 「少しね。」
黒田 — 「年度末だから。」
佐藤美咲 — 「そうですね。」
美咲は何も疑わない。
黒田も何も説明しない。
ただ、机を少しだけ軽くした。
その夜。
営業部には誰もいなくなった。
黒田だけが残っていた。
静かな部屋。
時計の音だけが響いている。
仕事ノートを開く。
残りページは、あと数枚。
万年筆を手に取る。
少し考える。
そして書く。
営業部は、もう質問するようになった。
私の仕事は、終わりに近づいている。
ページを閉じる。
電気を消す。
営業部を振り返る。
誰もいないデスク。
ホワイトボード。
コーヒーメーカー。
笑い声が聞こえてきそうな静けさだった。
黒田は小さく頭を下げる。
誰に向かってでもない。
この場所へ。
そして静かにドアを閉めた。
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